あなたは、どうして本を読むのだろう。
目的は人それぞれだろうが、男性は「新たな教養や知識を蓄えるため」に本を読むことが多いとされている(「Z世代社会人の読書習慣とは?」『「マーケティング・広報ラボ」』より)。
知識・教養はこの世を生き抜くための武器だ。
料理の腕前があなたに料理人の仕事を与えてくれるように、簿記の資格があなたに経理の仕事を与えてくれるように、身ひとつで競争社会に立つあなたが、誰かを「刺す」ための武器となる。
ことに美しく豊富な語彙や広汎な知識は、歳を重ねるごとにあなたの手に馴染むだろう。
そう信じているのも、これらの本を読んだからなのだ――。
北山の3冊(29歳 ライター・歴史研究者)
「現実に起きたこと」を知るのが好きだ。
三億円事件の真犯人についてでも、カンブリア爆発のきっかけについてでも、ハイデガーの好きな食べ物についてでも、知れるなら何でもよい。
叶うことなら、この世界で起こる森羅万象を知りたい。
そうやって広い視野を得ると、小高い丘の上に立って街を見下ろしているような、恍惚とする感覚がある。
これが、堪らなく好きなのである。
「私小説」というジャンルは、あくまで「フィクション」の一種ではあるが、現実の出来事を題材としている。言うまでもなく、日記や歴史書の類は「現実に起きたこと」の積み重ねだ。
ライター/歴史学研究者として活動していることもあり、こうしたジャンルから一級品を見極める眼は、すこしは肥えてきた自信がある。
小高い丘から美しい景色を見たい方は、私を信じてしばしのトレッキングにお付き合いいただけないだろうか。
『苦役列車』(西村賢太)
芥川賞受賞作。著者のド貧乏時代の青春を描いた私小説だ。
氏の作品はいずれも極貧、性欲、異常蒐集癖、家族・恋人・友人への暴言・暴力を軸としている。いわば、「モラハラ小説」。
極めて露悪的で、拒絶してしまう人も多い。
じゃあ何が良いのかって? 一貫して媚びないところだ。
最初の一文からこうである。
曩時北町貫多の一日は、目が覚めるとまず廊下の突き当りにある、年百年中糞臭い共同後架へと立ってゆくことから始まるのだった。
「曩時」なんて、誰が分かるんだよ。「ついて来たい人だけついて来れば?」の態度がサイコーにクール。
この独特の語彙と、復古調の文体が流れるようでクセになるのだ。マジで文体で酒が飲めるレベル。というか、私は本当に飲んでいた。
間違いなく私の文体にも影響を及ぼしている。私がたまに変な言い回しをするのは、氏のせいなのだ。
長くなるので我慢するが、氏は誰よりも小説にすがりつく人生を送っていた。軽々しい「小説に支えられました」発言とは一緒にしないで欲しい。
父親が性犯罪者、中卒、まともな職歴ナシ。過酷な肉体労働に勤しみながら、ポケットに大好きな小説のコピーを忍ばせ、休憩中に繰り返し読んで支えとしていた。
そんな男が書くものが、面白くないわけがない。
『歴史を考えるヒント』(網野善彦)
宮崎駿にも多大なる影響を与えた日本史研究者による一般書。いまだに「歴史研究者」を名乗ることもある私が、もっとも敬愛する歴史家だ。
氏の歴史観の魅力は、「優しさ」にある。だれも疎外しない。外国人でも、被差別民でも関係ない。ぜんぶ抱えてくれる。
講談社が全26巻に及ぶ「日本の歴史」シリーズを刊行した際、スター級の研究者たちが各時代を担当するなか、網野は00巻『「日本」とはなにか』を任された。基本的に、研究はテーマが大きければ大きいほど難しい。こんなテーマで書ける歴史家は他にいない。カッコよすぎる。
個人に対する受賞は全て固辞し、遺体は医学研究のために献体したという。その謙虚で誠実な人柄を、私は尊敬してやまない。
氏のおかげで、私はあらゆる差別を憎むことができるようになった。
「北條民雄の日記」(北條民雄)
NHKの人気番組「100分de名著」で北條のことを知った人は多いだろう。当時は不治の病とされたハンセン病に罹患し、隔離病院でのできごとを小説とした。「いのちの初夜」がことに有名だが、私が推したいのは氏の日記である。
随所に吐露される創作に対するエネルギーが、とにかく半端ない。読んでいると眩暈がするくらいのパワーがある。誇張ではなく、頭をぶん殴られたくらいの衝撃で、怠けている自分をぶっとばしたくなる。
情熱をもつて個我を守れ――。
と言って北條は23歳で死んでしまい、この一文は80年後の私の座右の銘となった。
私の暑苦しく我が強い性格は、北條の影響を強く受けている。
北條のせいで、「周りを振り回すくらいじゃないと、何かを成し遂げることはできない」と思っている節があるくらいだ(みんなごめん)。
四ツ谷の3冊(27歳 学術書編集者)
「逆張り」をしたい。
なんともチンケだが、私が本を読み続けてきた理由はここにあるのかもしれない。
思えば幼少期の頃から、人と違う事をしたかった。
皆と同じ縦長のランドセルを使うのが嫌で、1人だけ横型のものを買ってもらった。
コロコロコミックやハリーポッターではなく、誰も読んでいない本を図書館で探すのが好きだった(もちろん友達はいなかった)。
大人になってからもそう。
人が知らないことを知りたいし、人が行かないところに行きたい。
たとえ旅行に行ったって、いかにもなご馳走を食べるのは癪に障るし、お誂え向きの観光コースなんて行きたくもない。
当然似たようなスタンスの作家に憧れ、そういった作品ばかり読んできた。
サラリーマンとして働き始め、少しは丸くなっただろう。
しかし、読んできた本はやや歪んだ知識・経験として、私の血肉になる。
そんな逆張り読書人生の一端を、ご紹介したい。
『バーティミアス』(ジョナサン・ストラウド)
流行ってるものを読むのはダサい。
他人が知らないものを読んで優越感に浸りたい。
私が人生で最初にこの醜い自尊心を自覚したのが、この『バーティミアス』である。
確か小学3年生の頃、「朝読書」の時間に『ハリーポッター』が流行っていた。
しかし、既に捻くれの芽が出始めていた私はそんなものには手を出さない。同じイギリス製ファンタジーでも『バーティミアス』を読んで、同級生たちを小馬鹿にしていた。
主人公は5000歳の悪魔。狡猾で毒舌な皮肉屋。実力も大したことなく、強い敵からは逃げまくる。そんな彼が、自身を召喚した12歳の見習い魔法使いの復讐に手を貸す……というストーリー。
ハリーポッターの「正義の魔法使いvs悪の魔法使い」という分かりやすい筋書きとは対照的な、ちょっと大人向けの本書を読んで「お前らとはちげえんだよ」と本気で思っていた小学3年生。
私の逆張り読書人生は、確かにここから始まったのだ。
『第一阿房列車』(内田百閒)
夏目漱石の弟子にして、随筆の名手である内田百閒が「目の中に汽車を入れて走らせても痛くない」とまで愛した鉄道に乗って旅する紀行シリーズである。
百閒は、特に目的もなく阿呆のように汽車に揺られる。しかも、借金をしてまで一等車に乗る。
なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。
ただただ汽車で移動するだけの紀行文である。
旅先で美味しいものを食べよう、景色を見ようなんて「意味」のあることはしない。
そういえば我々も、特に意味もなくグリーン車に乗って滋賀を目指し、よくわからないガールズバーに行ったりした。
もっともアナーキーでアヴァンギャルドでヴィヴィッドな滋賀旅行
人生に、生活になるべく意味を求めない。
特に得るものはないが、楽しければそれでいい。
学術書という明らかに「意味がある」書物を作ってセコセコ労働に励む私は、そんな百間のスタンスに憧れ続けている。
『国境の南、太陽の西』(村上春樹)
「他人が知らないものを読んで優越感に浸りたい」と書いたが、結局村上春樹である。
私の人生は、村上春樹に狂わされてしまった。
彼の作品の主人公たちは皆、他者と積極的に関わることなく、完結した自らのみの空間に安住したいと願っている。そして、そんな小宇宙の中で、パスタを作ったりレコードを聴いたりして優雅に過ごしている。
内向的な大学生だった私は、村上春樹に出会い、そんなライフスタイルにすっかり憧れてしまった。こんな居心地の良さそうな生活があるなんて!
就職して、郊外のマンションを一部屋親戚から譲ってもらった。これ幸いと2ldkに本とレコードを大量に持ち込み、良い感じの家具も揃えて小宇宙を作り上げた。『国境の南 太陽の西』の主人公よろしく、仕事は適当にこなし同僚とも関わらず、ほぼ世間と隔離された生活を送った。パスタも作った。
しかし、そんな生活にも慣れたある日、ふと何か足りないものに気づく。村上春樹の代名詞とも言えるあれ。
そう、セックスである。
村上春樹の主人公たちは、なぜか孤独な生活をしているのに女性と関係を結んでいる。それは当然、小説だからである。
しかし、都会から離れたベッドタウンにひとり閉じこもって暮らす男に、そんな機会が訪れるはずもない。この事実に気づいた時に、私は膝から崩れおちた。なんで村上春樹に憧れるかって、孤独で内向的なライフスタイルもよいが、結局は「それなのに女性が寄ってくる」からなのだ。
かくして、「セックスの無い村上春樹」という悲しきモンスターが誕生したのである。
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