なぜここまで残虐な行為ができるのか……。
「殺尼魔」「稀代の殺人鬼」「人鬼」と呼ばれた放浪の僧侶が、尼僧・巫女など計7名を強姦し、殺害した残忍な事件。大正史に残る「大米龍雲連続殺人事件」という悪夢の記録を紹介しよう。
尼僧四十余名を辱めたる兇漢
1905年、破れた法衣を身にまとった僧侶が、兵庫県尼崎市で72歳の尼僧を殺害し、現金を強奪した。僧侶は1915年に69歳の尼僧を強姦・殺害するまでの12年間、残虐な犯行を繰り返し、「尼僧四十余名を辱めたる兇漢」として全国に悪名を轟かせた。
被害者の舌を手で引きちぎり……
犯人の名前は大米龍雲。
日清戦争に従軍し、地雷で鼻柱を失っていた。浅草の質屋に生まれた龍雲は、幼いころに両親と死別、大分県の寺院に預けられ、僧侶となった。
龍雲の犯行は残忍極まりなく、ターゲットに定めた女性は老若関係なく強姦し、悲鳴を上げた被害者の舌を手で引きちぎったことさえあるという。
「龍樹菩薩に倣い」数多くの偽名を用い、強盗、窃盗、殺人、強姦、50以上の罪を重ねた。本人でさえ「あまりに多くの犯罪ですから一々之を記憶しておりません、ゆっくり考へて申し立てます」と述べるほどであったという。
使用した凶器は小刀、短銃、匕首、または「槍の先を三本束ねて作れる一見野蛮人の使用する武器のやうなもの」であった。
足かけ12年以上にわたって犯罪行脚を続けたが、売りさばいた盗品の袈裟と、鼻柱の欠損という特徴から足がつき、内縁の妻と一緒にいるところを博多で捕縛された。事件を担当した検事は「かかる兇賊は一日も世に存することを許すべからず」、刑事は「先天的に残忍冷酷」「彼の如きは実に近代稀に見る兇漢にして其兇行の大胆にして残忍」と述べている。

事件の詳細を伝える当時の新聞記事
死刑の間際の驚くべき一言
15年11月3日の裁判には300人の傍聴人が押しかけた。
死刑を宣告された龍雲は、去り際に霊魂不滅説を主張。その後、獄中では漢詩を読んだりして過ごしたという。
死刑執行時には、
「面倒くせえから、さっぱりやってもらいやしょうぜ。なあに死刑のほうがさっぱりしてようがさあ」
「人の命は果たして何分でことぎれるか、私は数珠を摘まんで絞首されます。私が数珠を取り落とした時が命の絶たれた時と思つて下さい。私は野獣性を帯びているから必ず人並みの時間では死にませんから調べて下さい」
と言い放ち、驚くことに十六分間も数珠を落とさなかったと、当時の新聞は伝えている。
【参考】
『読売新聞』
1915年8月15日、同16日、同17日、同18日、同19日、同20日、同22日、1916年3月26日、1924年11月10日(いずれも朝刊)『朝日新聞』
1915年8月15日、同16日、同17日、同18日、同21日、同29日、同11月4日、同5日、9日、1916年6月27日(いずれも朝刊)

1996年生まれ。編集者。慶應義塾大学卒業。出版社数社を転々とし、現在は専門出版社に在籍。主に学術書の編集を担当している。横浜生まれ横浜育ちの自称シティボーイ。
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