発禁本。公権力によって発売、頒布が禁止された図書。
現在の日本では、憲法第21条によって表現の自由が保障されており、検閲も禁止されています。
しかし、日本でも明治期から戦中にかけて、政府は検閲を通じて表現を制限し、国家のイデオロギーや社会秩序を維持しようとしました。
発禁となる基準は大きく二つ。「安寧秩序紊乱(ぶんらん)」・「風俗壊乱」という観点から、あらゆる出版物の検閲が行われていました。要するに、社会の安定を乱すもの、これまでの慣習や風習を壊すものは許しません、ということです。
では、実際にはどんな書籍が発禁の憂き目に遭ったのでしょうか。
公権力が恐れ、社会の治安を守るべく闇に葬り去った書籍の中から、我々がこっそり入手したとある小説を読んでいきましょう。
「風俗上有害ナリト認メラル性的場面ノ露骨ナル描写」
ナナは男の生血を吸つては棄ててしまふのだ。
それはつまり、一人の男が零落して、熟した果物の如く彼女の手から落ちて、地に朽ちて行くのであつた。
今回取り上げるのは、『女優ナナ』。
1880年に刊行された、フランスの自然主義作家、エミール・ゾラの代表作です。
19世紀末のフランスを舞台にしたこの物語は、主人公のナナと呼ばれる若い娼婦の生涯を描いています。彼女は美しさと奔放な性格を武器に社交界の名士たちから大金を巻き上げ、彼らの生活を破綻させていきます。
手練手管で富と名声を獲得するナナですが、同時に欲望と腐敗に満ちた環境に身を置くことになります。
これまでに数多くの日本語訳が刊行されていますが、発禁の対象となったのは、1926年6月に発行されたもの。訳者は西牧保雄という人物で、三水社なる出版社から刊行されています。版元名、訳者名ともにそのプロフィールは全く残っていません。
発禁処分を受けたのは1927年7月であり、発売から約1年後のこと。処分の分類は「風俗壊乱」であり、その理由は「風俗上有害ナリト認メラル性的場面ノ露骨ナル描写」の存在ということになっています。
一体どんなすごい描写が待っているのでしょうか。
「発禁本の濡れ場が読みたい!」はやる気持ちを抑えながらページを捲り、読み進めます。
全然エロくない
気づいたら読み終わっていました。
エロの欠片もない。村上春樹クラスの性描写を期待していたのにあまりに拍子抜け。
どこにも「風俗上有害」で「露骨ナル」場面が見当たりません。
確かに性描写はいくつかあります。しかし、全く露骨ではなく、むしろ非常に品のある描き方がされています。
例えばこんな感じ。この後の描写は特にありません。モヤモヤしますね。これがダメなら「源氏物語」も発禁では?
21世紀に生きる我々が、あまりに過激で露骨な描写に慣れきっているのでしょうか。当時の検閲官が村上春樹なんて読んだら、卒倒すること間違いないでしょう。
「風俗壊乱」ではなく「安寧秩序紊乱」では?
はい、ここからは無理やり捻り出した感想です。読み飛ばしてください。
おそらく、この本の危険性は「性的場面ノ露骨ナル描写」にはありません。
貴族たちを破滅に導き、倫理や社会規範の崩壊を顕在化させるナナの振る舞いは、さながら下層市民による無意識の下剋上、復讐劇の様相を呈しています。
上流社会に混乱と破壊をもたらし、秩序を乱す女性を魅力的に描いたこの筋書きが、「安寧秩序紊乱」を招く書籍として政府に目を付けられるのならば、まだ納得できるところです。
やはりこの本が「風俗上有害ナリト認メラル性的場面ノ露骨ナル描写」とされているのは、現代の感覚からは理解しづらい部分があります。
謎は深まるばかり。
きっと大正時代の検閲官はみんな童貞だったに違いありません。
※小説としてはとても面白いです。現在は新潮文庫などで読めるようなので興味のある方はぜひ。
1996年生まれ。編集者。慶應義塾大学卒業。出版社数社を転々とし、現在は専門出版社に在籍。主に学術書の編集を担当している。横浜生まれ横浜育ちの自称シティボーイ。
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