アラサー世代に適した旅行先とは、どこだろうか。
テーマパークは少し若々しすぎるかもしれない。たまには温泉も良いが、かすかに残る少年心もくすぐってほしい。欲を言えば、都会で疲れ果てた肉体を癒してくれる緑もほしい。
そんな貴方には、廃村探索をおススメしよう。
廃村に行きたい
30歳が見えてきたころから、無性に廃村に行きたいと思うようになった。
青々しい新緑の精気にむせながら、うち捨てられた村のなかを歩き回りたいのだ。道々のアスファルトは千々にひび割れているほうが良い。その隙間から虎杖の頭などが、ぬっくりと顔を出していると、なお好ましい。
たとえば、ひしゃげた家の屋根を、ヤマゴケがもこもこと浸食してゆくさまを思い描いてほしい。葛の葉の緑が、さび付いた自転車を螺旋状に飲み込んでゆくところを想像してほしい。
きっと、気持ちが徐々に浮き足立ってくるだろう。
どうして廃村に惹かれるのか
人はどうして廃村に惹かれるのか。
僕は高校生のころ「大分麦焼酎二階堂」のテレビコマーシャルが大好きだった。こっそりとスクールバッグにPSPを忍ばせては、通学バスのなかでリピート再生していた。
うらぶれた町並みを背景に、塩辛声の男性が詩を朗読する。それだけのコマーシャルなのだが、繰り返し観たい中毒性があった。
このコマーシャルの世界観は、恐らく二階堂酒造有限会社が設立された1960年代なのだろう。94年生まれの僕には想像もできない時代だが、不思議と「あのころに戻りたい」と思わせる力があった。
「過ぎ去った時代」には、有無を言わせぬ引力があるのだ。
その引力は、「時の流れ」を実感できるようになったオトナこそ引き付ける。
「後ろめたさ」の魅力
幼少期、父の書斎で『死体の本』というムックを見付けたことがある。「死体カメラマン」や「奇形標本」といった、ちょっと趣味の悪い特集があったことを覚えている。
少年時代の僕は、おっかなびっくりその本を開くのが好きだった。
廃村は、村の死骸だ。
足を踏み入れると、「誰かに怒られるのではないか」という後ろめたさを覚える。
水底のように静まりかえった廃墟に、そろりと首を突っ込む(他人の家に勝手に入ったら不法侵入だ)。目線の先に、湿気でふやけた家族写真を見付ける。底の抜けた鍋が、台所の方にうっちゃってあることに気付く。
その時、僕は『死体の本』を開いた時の気持ちを思い出す。
「廃村に行きたい」は、「死体を見たい」に通ずるのかもしれない。
言ってしまえば、「怖いもの見たさ」を満たしてくれる場所なのだ。
理想的な廃村とは?
廃村を「村の死骸」と考えると、どのような廃村が理想的といえるだろう。
人は刺激を好む。とくに働き盛りのオトナの身体を癒してくれるのは、ピリッとしびれる強めの刺激だ。
どうせ死骸を見るのであれば、いくらか腐敗が進み、肉が液状化しているくらいがちょうど良い。古すぎても新鮮すぎても刺激が足りない。
江戸時代の家々の痕跡を見ても、そこに廃村としての魅力は感じないだろう。生活臭の消え去った廃村は、いわば白骨化した死体のようなものだ。
かといって、住人が出て行ったばかりの村でもダメだ。出来たてホヤホヤの廃村では、生きている人間と変わらない。
だから、理想的な廃村は、ほどよい腐り加減であるべきだ。
見たい。けど怖い。薄目を開いて、おっかなびっくり覗いてみる。ああ、やっぱり怖い。それくらいであるべきだ。
目指すは「倉沢集落」
我々は日々の疲れを、理想的な廃村に癒してもらうことにした。
幸運なことに、都内には日帰りで行くことができる廃村が存在する。
その名は、倉沢集落――。
聞くところによると、奥多摩の山深くにある、それは美しい廃村だそうだ。
向かうは、新宿駅から2時間ほどでたどり着く鳩ノ巣駅。
今回の廃村探索は、ここから始めることにしよう。
それでは、出発だ。
1994年生まれ。男性。ライター/歴史研究者。一橋大学大学院修了。「文春オンライン」、「プレジデントオンライン」、「週刊読書人」などに寄稿。共著に『紫式部と源氏物語の謎』(プレジデント社)。専門は日本近世村落史だが、哲学、文学、サブカルチャーなども得意。澁澤龍彦に憧れている。
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